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11月5日 盆栽屋のんき話
 M氏が真葛香山の香合と、柿右衛門の豆鉢を持ってきた。まず真葛の香合を見る。かなり小ぶりで有るが、帯締めの形を取っていた。帯締の中央より左右に花の絵が有り全体締まった作り、実に良い物で有った。時代がのっているので金彩も落着きを出しており、器の内側もコゲ茶色の釉、金で細く網目になっていた、香合ならば棚飾にも使えるし、さすがの真葛で有る。私は惚れ込んでしまった。だがよく見ると小さな香合のフチに2,3か所、金ツクロイが有った。以前の蔵者が傷つけたものであろう。もったいないし実にいい物なので直したもので有るがそこが気になり、私は買えなかった。一か所ぐらいのキズなら買いたかったが。さて、次は柿右衛門の鉢で有る。ほとんど豆鉢と言える。二寸以下の品で有った。十三代と言った。私もそう思う。使い込まれていい時代は有った。チョット深めのわずかに外ドリの丸物で有る。柿右衛門独特のスッキリとしたにごし手で有る。ボタンのような、ムクゲのような、赤い花が実に美しい、鉢中まで釉薬がかけて有る。小さな鉢穴が二つ有る。よく見るとアト穴で有った。足も二本の下の線が切れて、三つ足となっていた。明らかにあとから陶器を削って三つ足を作って有った。惜しいかなこれも買えなかった。値も高かった。M氏はかなりの眼力を持つ人で有る。私より若いがかなりの年を感じる。鉢や卓や古物を見る眼力は私より格段に上のはづだが、どうした事だろう、眼力のおとろえか、金の忙しさか、いい物を見る眼が衰えたか、いささか残念で有る。
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11月12日 盆栽屋のんき話
 何時もの事だが盆栽の手入れをしながら、ラジオを聞いていたらつまらぬ事を思い出した。20年ぐらい前の事だが、同業者5人ぐらいで茨城の鹿島へ行った。その地の盆栽屋へ行ったら調度お客さんの土払品が100点ばかり棚のはしに集めて有った。いずれも小品盆栽で有る。かなり古い樹ばかりの雑木や黒松などで有った。土払品とはお客さんの整理した品で有る。主の言うのには売るとの事で有るから我々は喜んでその棚の盆栽を中から選んでいた。仲間の一人が黒松の良いのを手に持っている。よく見ると古渡の支那鉢に入っていた。しまった先に見つけられてしまった。その男は盆栽屋になってまだ浅く、鉢の事など知らぬはづだが、私はその鉢と樹が欲しくなったが、その男は手に持ったまま、他の樹を探している。なんとか手離したら俺が買ってやろうとしていたのだが、なかなか手放さない。こんな田舎の盆栽屋に良く、あんな樹と鉢があったものだ、私も何点かその中より拾ったが、まだその男は持ったまま探していたが、そのうちに黒松より赤松の文人の方が良いなんて言い出した。私は赤松ならこっちに有るよと言って、チョット大きめのを渡したら、赤松の鉢が重いのか、小品の黒松の方を手離した。赤松の文人の動きがオモシロク値も安かったので、その男は赤松で満足したらしく黒松を見なくなり私はやっとその黒松を手に入れた、幸いその持主の盆栽屋もその鉢の良さなど知らなかった。私はその価値をおしえてやらぬ。ウシロメタサを感じたが内心嬉しくて嬉しく仕方がなかった。その夜の宿での宴会でも各人が買った品を自慢しあっていたが、私はその鉢その黒松の事は何も話さなかった。家に帰って早速に鉢を樹を別々にした。わくわくする気で鉢を見る。古渡の梨皮の丸鉢で有った。その鉢は今は鉢の本などに写真が飾られている。持主も何人か変わり今は中国へ帰って行ったようだ。最初に手に持っていた男も8年ぐらい前に亡くなっている。私は何か人をだましたような気分が今も取れない。跡を継いでるその男の息子に今度話してみるかとも思うのだが、どうしたもので有ろうか。
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11月19日 盆栽屋のんき話
 私は今だにフトンは重い方が好きだ。ラジオなどで通販などでフトンは軽くて暖かいのが一番良いなどと言って、羽毛フトンを一番良いものと安売をしているが、買う気にならない。この年になっても重いフトンが気に入り、冬になると3枚も4枚も掛けて満足してしまう。女房は入院などしたら、こんなにフトンなど重いのは掛けられないと言っている。17才頃の事で有ろうか、商いの修業で親方とオート三輪に乗り鎌倉に2日ぐらい続く縁日の商いに行った。仕事も終わり、近くの食堂でメシを喰い、時間が有るので親方はどこか飲屋へ行った。私はオート三輪の荷台でネルので有る。今日は材木座海岸がネル場所だった。オート三輪の荷台は屋根がない。幸い天気も良い、幸い古い毛布を体にまきつけ、冷たい荷台で天を見る。満点の星が美しい。波がドドーン、ドドーンとすぐ間近で聞こえる。だが10月頃で寒かった。何か無か、探したが盆栽や草花を積んできた。木の重い荷台しか無かった。仕方がないのでその荷台を毛布の上から体の上に乗せた。だいぶ重かったが、下からくる冷たさは鉄板で有るから仕方がないか、それでも荷台の重さでだいぶ暖かくなってきた。頭だけ出してネルので星空の美しさは見える。昼間のつかれも有りすっかりとねむる事ができた。夜中頃に親方は帰ってきたらしい私がどこにもいないので近くの寺や家々の軒下などを探したらしいが、どうしても見つからない。あきらめてオートの助手席に乗ろうとして荷台を見たら、その下で私を見つけ死んでいるじゃないかと思い、私をゆり起したといった。まあ良かったとスッカリ酔のとれてしまった親方は屋根の有る助手席で座ってねた。私は毛布にまるまり、また重い荷台をのせてねることになった。あのときの暖かさと満点の星、波の音はいまだに忘れない。フトンの重さから、このような思い出話になった。あの頃は特に貧しく、宿屋などには泊まった事が無かった。着のみ着のままの生活だった。次回はオート三輪での生活を書いてみたい。
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11月28日 盆栽屋のんき話
 親方は今度の旅は、一応は一週間はかかると言った、よく売れてしまえば5日間ぐらいで帰れるだろうから、それなりの衣服を持ってくるようにと、行先は渋川と桐生と言っていた、なんでも衣服など生産している所で景気がよい所とか言っていた。私は17才ぐらいで家にいるより外の知らない世界が見たかった。遊びに行くのではない行商に行くので有るが、今度は荷台にもシートが付ける用にして有った。夜ねる時もいささか暖かさが取れるとか、ただリヤカーを荷台に積むのでシートはねる時だけ張るので有る、リヤカーの上にも車輪の間にも草花や盆栽まがいの樹々でいっぱいで有る。まるですき間も無い、コンロも古新聞も積んで有った。宿屋などに泊まらず、この車に夜になると寝るので有る。オート三輪は親方のただ一つの財産と言っていた。中古なのによく走った。まだ日本の道はかなり悪く、穴ボコだらけだった。三輪車なので年中体が揺れたた。まだ私は免許は持っていなかった。群馬県に入ると夜になっていた、真っ暗でガソリンスタンドがなかなか見つからない。小さな家でもガソリンは売っていた。夜中に起こすとそれでも嫌がらず起きてくれた。ガソリンの入った一升ビンが何本も有った。それを車のタンクの口にさし込み、一升瓶をグルグルと廻すので有る。一升ビンの中のガソリンは渦を巻いてタンクの中へ入る。なかなか気持ち良いものである。泊の場所は神社や寺の入口が多かった。スムースに車が入った、まだ商いをしてないので私も親方も運転席と助手席に寝なければならない、コンロで火をおこすのもガソリンタンクの穴に新聞紙をまるめてつっこみ、新聞紙をガソリンをたっぷりとしみこますと、よく燃える事を教わった。回りより木のきれっぱしや枝を拾い共々に燃やし、夕食を作るので有る。夜食を喰い初日は終わった、だいたい行商に行くのは5月頃から9月頃までであった。あとは東京とか近場の縁日などが有り、遠くへ行く事は無かった。私は遠くへ行く時だけ親方について行った。親方はまだ30代の初めで有る。母親達の仲間で有った。母親もオヤジも植木の里で卸業を始めたくて安行に住んだ頃で有る。縁日屋から一歩前進をどうしてもしたかったとか、よく話をしていた。
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